歴代理事長プロフィール
崔 洋一(2004~2022)
【プロフィール】
1949年長野県生まれ。大島渚監督や村川透監督などの助監督を経て、83年にベネチア国際映画祭に出品された『十階のモスキート』で劇場映画監督デビューを飾る。以後、『いつか誰かが殺される』(84年)など一連の角川映画を監督したほか、数々のテレビ映画を手掛け実力を開花していく。93年、『月はどっちに出ている』で53にわたる映画賞を総なめにし一躍脚光を浴びる。 96年には韓国・延世大学に留学し、韓国の近代映画史を研究しながら多くの韓国映画人と交流。帰国後、ロカルノ映画祭国際シネクラブ賞を受賞した『豚の報い』(98年)などを手がける。02年、『刑務所の中』-ブルーリボン賞などを受賞-。04年『クイール』、『血と骨』と立て続けに話題作、意欲作を世に問い、高い評価を得ている。
山田 洋次(2003~2004)
【プロフィール】
昭和6年大阪生まれ。昭和22年満州から引き揚げ、東京大学卒業後、昭和29年松竹大船撮影所に助監督として入社。 川島雄三、野村芳太朗、渋谷実などに師事。この頃から脚本も手がける。 昭和36年「二階の他人」で監督昇進。「馬鹿まるだし」「運が良けりゃ」などの喜劇作品を経て、昭和44年「男はつらいよ」を発表、平成8年のシリーズ終了まで48作品を手がける。 平成14年初の本格時代劇「たそがれ清兵衛」が大ヒット。日本アカデミー賞など数々の映画賞を独占する。 他の作品に「家族」「同胞」「幸福の黄色いハンカチ」「遙かなる山の呼び声」「キネマの天地」「ダウンタウンヒーローズ」「息子」などがある。夜間学校や養護学校などを舞台にした「学校」シリーズの評価も高い。また落語への造詣が深いことでも知られる。
受賞歴
- ブルーリボン監督賞(昭和41年度・昭和52年度)「運が良けりゃ」「幸福の黄色いハンカチ」
- 年間代表シナリオ(昭和43年度以降10回以上)
- 芸術選奨文部大臣賞(昭和44年度)
- 毎日映画コンクール監督賞(昭和44年・昭和46年・昭和48年・昭和52年・平成3年)
- 毎日映画コンクール脚本賞(昭和44年・昭和48年・昭和49年・昭和52年・平成12年)
- ゴールデン・アロー賞映画賞(第8回昭和45年)
- 毎日芸術賞(第12回/昭和45年度)
- キネマ旬報日本映画監督賞(昭和45年・昭和52年・平成3年・平成14年)
- キネマ旬報脚本賞(昭和45年・昭和49年・昭和52年・平成14年)
- 日本映画テレビプロデューサー協会賞特別賞(昭和47年)
- 菊池寛賞(昭和48年)
- ブルーリボン賞(特別賞/昭和50年)
- 日本アカデミー賞監督賞(第1回昭和53年・第17回平成6年・第26回平成15年)
- 毎日映画コンクール特別賞(昭和54年)
- アジア映画祭最優秀喜劇賞(第26回昭和55年)
- 牧野省三賞(昭和57年)
- 都民栄誉賞(昭和57年)
- 日本アカデミー賞特別賞(昭和58年)
- 山路ふみ子賞(映画賞/第10回昭和61年・第17回平成5年)
- 日本映画復興賞(第4回昭和62年)
- ウィーン市ヨハン賞(平成元年)
- 山路ふみ子賞(福祉賞/第15回平成3年)
- 日刊スポーツ映画大賞石原裕次郎賞(第4回平成3年・第9回平成8年)
- 報知映画賞作品賞(平成3年/平成14年)
- 日刊スポーツ映画大賞作品賞(第6回平成5年・第13回平成12年・第15回平成14年)
- ペスタロッチー教育賞(第4回平成7年)
- 紫綬褒章(平成8年)
- 朝日賞(平成8年)
- 藤本賞(特別賞/第18回平成11年)
- 上海国際映画祭最高監督賞(第4回平成11年)
- 勲四等旭日小綬章(平成14年)
- 日刊スポーツ大賞監督賞(第15回平成14年)
- ブルーリボン章(作品賞/第45回平成15年)
- 文化庁優秀映画賞(平成15年)
- 日本アカデミー賞作品賞(第26回平成15年)「たそがれ清兵衛」
深作 欣二(1996~2003)
【プロフィール】
昭和5年茨城県生まれ。日本大学芸術学部卒業後、昭和28年東映入社。 企画本部を経て。翌年東京撮影所助監督部。 昭和36年「風来坊探偵・赤い谷の惨劇」で監督昇進。 昭和39年谷口千吉監督の「ジャコ万と鉄」を高倉健のの主演でリメイクしてヒット。 その後松竹や独立プロ、合作映画の作品を手がけながら活躍。東映に戻り、 昭和48年「仁義なき戦い」を発表し、大ヒット。シリーズ化されて、東映の任侠路線からの転換を先導した。 昭和57年「蒲田行進曲」でキネ旬監督賞など、多くの賞を独占。 平成12年「バトル・ロワイアル」を発表。平成15年「バトル・ロワイアルII」撮影中に死去。 他の作品に「誇り高き挑戦」「軍旗はためく下に」「人斬り与太」シリーズ「仁義の墓場」「柳生一族の陰謀」「青春の門」「復活の日」「魔界転生」「上海バンスキング」「火宅の人」「華の乱」「いつかギラギラする日」「忠臣蔵外伝 四谷怪談」「おもちゃ」などがある。
受賞歴
- 年間代表シナリオ(昭和47年・昭和53年・昭和61年・昭和62年)「軍旗はためく下に」「柳生一族の陰謀」「火宅の人」「必殺4ハ恨みはらします」
- ゴールデン・アロー賞(映画賞/昭和48年)「仁義なき戦い」
- ブルーリボン賞(監督賞/昭和50年)「仁義の墓場」「県警対組織暴力」
- 山路ふみ子賞(第6回昭和57年)
- キネマ旬報賞(監督賞/昭和57年)「蒲田行進曲」
- 毎日映画コンクール監督賞(昭和57年)「蒲田行進曲」
- ブルーリボン賞(監督賞/昭和57年)「蒲田行進曲」
- 日本アカデミー賞(監督賞・脚本賞/第10回昭和62年)「火宅の人」
- 牧野省三賞(第30回/昭和63年)
- 石原裕次郎賞(監督賞/第7回平成6年)「忠臣蔵外伝 四谷怪談」
- おおさか映画祭監督賞(第20回平成6年)「忠臣蔵外伝 四谷怪談」
- 日本アカデミー賞(監督賞・作品賞・脚本賞/第18回平成6年)「忠臣蔵外伝 四谷怪談」
- 紫綬褒章(平成9年)
- テレビジョンATP賞(第14回平成9年)「20世紀黙示録・もの喰う人びと」
- 日刊スポーツ映画大賞(監督賞/第12回平成11年)「おもちゃ」
大島 渚(1980~1996)
【プロフィール】
昭和7年、京都生まれ。京都大学卒業後演劇仲間に誘われ、昭和29年松竹大船撮影所に助監督として入社し、大庭秀雄監督らにつく。 オリジナル脚本創作による監督をめざし、主宰誌「7人」及び助監督室編集の「シナリオ集」に11本の脚本を発表。 昭和34年「愛と希望の街」(脚本名は「鳩を売る少年」)で監督昇進。続いて「青春残酷物語」(第1回日本映画監督協会新人賞)「太陽の墓場」を発表。松竹ヌーベルバーグの旗手と称されるが、「日本の夜と霧」の上映中止騒動の後、昭和36年退社。同年独立プロ・創造社を設立。以後、「飼育」「白昼の通り魔」「日本春歌考」「絞死刑」「少年」「儀式」などを撮る。 昭和48年創造社は解散。昭和50年大島渚プロを設立。「愛のコリーダ」「愛の亡霊」「戦場のメリークリスマス」「マックス、モン・アムール」などの合作映画を発表。 平成8年2月脳出血で倒れるが、平成11年「御法度」を監督。
受賞歴
- 日本映画監督協会新人賞(第1回昭和35年)「青春残酷物語」
- ブルーリボン賞(新人賞/昭和35年)「青春残酷物語」
- 芸術祭賞(テレビ部門/昭和35年)「青春の深き淵より」
- 年間代表シナリオ(昭和35年・昭和42年・昭和43年)「太陽の墓場」「日本春歌考」「絞死刑」
- ギャラクシー賞(第一回昭和38年)「忘れられた皇軍」
- 日本映画記者会賞(最優秀作品賞/昭和41年)「白昼の通り魔」
- キネマ旬報賞(脚本賞/日本映画監督賞・脚本賞/読者選出日本映画賞/昭和43年・昭和46年・昭和58年)「絞死刑」「儀式」「戦場のメリークリスマス」
- 毎日映画コンクール脚本賞/監督賞・脚本賞(昭和46年・昭和58年)「儀式」「戦場のメリークリスマス」
- 英国映画協会賞(昭和51年)「愛のコリーダ」
- カンヌ国際映画祭最優秀監督賞(昭和53年)「愛の亡霊」
- ブルーリボン賞(特別賞/昭和58年)
- 川喜多賞(昭和60年)
- ハイビジョンアウォード特別功績賞(平成10年)
- 牧野省三賞(平成11年)
- 芸術選奨文部大臣賞(平成11年)「御法度」
- サンクトペテルブルク国際映画祭グランプリ(平成12年)「御法度」
- 紫綬褒章(平成12年)
- 毎日芸術賞(第42回平成12年)「御法度」
五所平之助(1964~1980)
【プロフィール】
明治35年東京生まれ。松竹の城戸四郎に勧められ、大正12年松竹蒲田撮影所に助監督として入社。島津保次郎監督に師事し、大正14年「南島の春」で監督昇進。 昭和6年国産トーキー第一号となる「マダムと女房」を発表。 無声映画時代から戦後まで、松竹、大映、東宝、独立プロと渡り歩き、監督した作品は約100本。代表作に「村の花嫁」「伊豆の踊子」「人生のお荷物」「新雪」「今ひとたびの」「煙突の見える場所」(ベルリン国際映画祭入賞)「大阪の宿」「挽歌」「蛍火」「恐山の女」などがある。五所亭の俳号を持ち、俳人協会監事もつとめた。 昭和56年、79歳で死去。
受賞歴
- 毎日映画コンクール監督賞(昭和22年)「今ひとたびの」
- ベルリン国際映画祭国際平和賞(昭和28年)「煙突の見える場所」
- サンセバスチャン映画祭・カトリック賞(昭和34年)「蟻の街のマリア」
- 紫綬褒章(昭和41年)
小津安二郎(1955~1963)
【プロフィール】
明治36年東京生まれ。中学在学中、活動写真にとりつかれ、映画監督を志す。小学校の代用教員を経て、大正12年松竹蒲田撮影所入所。 撮影助手、監督助手を経て、昭和2年時代劇「懺悔の刀」で監督昇進。 昭和4年「大学は出たけれど」昭和5年「落第はしたけれど」で当時の就職難を扱い、庶民の哀歓を描く。 その後「東京の合唱」(昭和6年)「生まれてはみたけれど」(昭和7年)やトーキー「一人息子」(昭和11年)を発表。軍映画班員としてシンガポールへの従軍を経て、戦後は撮影監督・厚田雄春と組んで、笠智衆、原節子らの出演で「晩春」(昭和24年)「宗方姉妹」(昭和25年)「麦秋」(昭和26年)「お茶漬けの味」(昭和27年)「東京物語」(昭和28年)「早春」(昭和31年)「彼岸花」(昭和33年)「秋日和」(昭和35年)「小早川家の秋」(昭和36年)など傑作を撮り、溝口健二と並ぶ日本映画界の巨匠として君臨した。 昭和37年には映画人として初めて芸術院会員となる。 昭和38年還暦の誕生日に没し、松竹、監督協会合同葬。遺作は昭和38年「秋刀魚の味」。
受賞歴
- 毎日映画コンクール監督賞・脚本賞(第4回昭和24年)「晩春」
- シナリオ賞(昭和24年・昭和25年・昭和26年・昭和27年・昭和28年・昭和31年・昭和33年・昭和35年・昭和37年)「晩春」「宗方姉妹」「麦秋」「お茶漬けの味」「東京物語」「早春」「彼岸花」「秋日和」
- ブルーリボン賞監督賞(第2回昭和26年)「麦秋」
- 毎日映画コンクール日本映画賞(昭和26年)「麦秋」
- 紫綬褒章(昭和33年)
- 日本芸術院賞(昭和34年)
- 芸術選奨文部大臣賞(昭和36年)
- アジア映画祭監督賞(昭和36年)
- ブルーリボン賞日本映画文化賞(昭和38年)
- 毎日映画コンクール特別賞(昭和38年)
- NHK特別賞(昭和38年)
溝口健二(1937~1943)(1949~1955)
【プロフィール】
明治31年東京生まれ。黒田清輝主催の葵橋洋画研究所に学び、大正9年日活向島撮影所に監督助手として入社。 12年「愛に甦へる日」で監督昇進。まだ24歳であった。同作は貧乏生活の描写がリアル過ぎると検閲ではカットされた。 関東大震災で京都の日活大将軍撮影所に移る。 「紙人形春の囁き」(大正15年)「唐人お吉」(昭和5年)「滝の白糸」(昭和8年)など無声映画時代から活躍、「浪華悲歌」「祇園の姉妹」(昭和11年)で名声を高め、戦時中は「残菊物語」(昭和14年)「芸道一代男」(昭和16年)など芸道ものを松竹で連作。戦後は「西鶴一代女」(昭和27年)「雨月物語」「祇園囃子」(昭和28年)「山椒大夫」「近松物語」(昭和29年)など名作を発表。 昭和31年永眠。享年58歳。 日本映画の巨匠としてゴダール、リヴェット、ベルトルッチら多くの映画監督に愛された。
受賞歴
- ベネチア国際映画祭国際賞(昭和27年)「西鶴一代女」
- ベネチア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞1位(昭和28年)「雨月物語」
- ベネチア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞4位(昭和29年)「山椒大夫」
- 芸術選奨(第5回昭和29年)「近松物語」
- ブルーリボン賞(監督賞/第5回昭和29年)
- 毎日映画コンクール特別賞(第11回昭和31年)
- 紫綬褒章(昭和30年)
- 勲四等瑞宝章(昭和31年)
村田實(1936~1937)
【プロフィール】
明治27年東京生まれ。東京高等師範学校付属中学を出たが、19歳の時、演劇雑誌「とりで」を発行。 大正元年、劇団「とりで社」を旗揚げし、俳優兼演出者として舞台に立つ。 のち小山内薫の指導を受けて劇団「踏路社」を組織し俳優として活躍したが、 9年小山内薫について松竹蒲田撮影所に入り、第1回作品として自信原作。脚本の「奉仕の薔薇」を完成、映画監督の道を歩む。 10年、映画研究所に移り、「路上の霊魂」を演出し出演もした。のちに国活を経て日活に入社、現代劇部首席監督となる。 昭和7年日活を退社、新興キネマに転じた。その間、牛原虚彦と共に「映画科学研究」を編集。11年「新月抄」撮影中病気のため放棄。12年44歳の若さで亡くなり、第一次日本映画監督協会葬が行われた。 他に「街の手品師」「霧笛」など。
受賞歴
- 朝日新聞最優秀映画(大正14年)「街の手品師」
- 「第1回日本優秀映画監督投票・第二位」(映画往来/昭和5年)
歴代理事長プロフィール
崔 洋一
(2004~2022)
【プロフィール】
1949年長野県生まれ。大島渚監督や村川透監督などの助監督を経て、83年にベネチア国際映画祭に出品された『十階のモスキート』で劇場映画監督デビューを飾る。以後、『いつか誰かが殺される』(84年)など一連の角川映画を監督したほか、数々のテレビ映画を手掛け実力を開花していく。93年、『月はどっちに出ている』で53にわたる映画賞を総なめにし一躍脚光を浴びる。 96年には韓国・延世大学に留学し、韓国の近代映画史を研究しながら多くの韓国映画人と交流。帰国後、ロカルノ映画祭国際シネクラブ賞を受賞した『豚の報い』(98年)などを手がける。02年、『刑務所の中』-ブルーリボン賞などを受賞-。04年『クイール』、『血と骨』と立て続けに話題作、意欲作を世に問い、高い評価を得ている。
山田 洋次
(2003~2004)
【プロフィール】
昭和6年大阪生まれ。昭和22年満州から引き揚げ、東京大学卒業後、昭和29年松竹大船撮影所に助監督として入社。 川島雄三、野村芳太朗、渋谷実などに師事。この頃から脚本も手がける。 昭和36年「二階の他人」で監督昇進。「馬鹿まるだし」「運が良けりゃ」などの喜劇作品を経て、昭和44年「男はつらいよ」を発表、平成8年のシリーズ終了まで48作品を手がける。 平成14年初の本格時代劇「たそがれ清兵衛」が大ヒット。日本アカデミー賞など数々の映画賞を独占する。 他の作品に「家族」「同胞」「幸福の黄色いハンカチ」「遙かなる山の呼び声」「キネマの天地」「ダウンタウンヒーローズ」「息子」などがある。夜間学校や養護学校などを舞台にした「学校」シリーズの評価も高い。また落語への造詣が深いことでも知られる。
受賞歴
- ブルーリボン監督賞(昭和41年度・昭和52年度)「運が良けりゃ」「幸福の黄色いハンカチ」
- 年間代表シナリオ(昭和43年度以降10回以上)
- 芸術選奨文部大臣賞(昭和44年度)
- 毎日映画コンクール監督賞(昭和44年・昭和46年・昭和48年・昭和52年・平成3年)
- 毎日映画コンクール脚本賞(昭和44年・昭和48年・昭和49年・昭和52年・平成12年)
- ゴールデン・アロー賞映画賞(第8回昭和45年)
- 毎日芸術賞(第12回/昭和45年度)
- キネマ旬報日本映画監督賞(昭和45年・昭和52年・平成3年・平成14年)
- キネマ旬報脚本賞(昭和45年・昭和49年・昭和52年・平成14年)
- 日本映画テレビプロデューサー協会賞特別賞(昭和47年)
- 菊池寛賞(昭和48年)
- ブルーリボン賞(特別賞/昭和50年)
- 日本アカデミー賞監督賞(第1回昭和53年・第17回平成6年・第26回平成15年)
- 毎日映画コンクール特別賞(昭和54年)
- アジア映画祭最優秀喜劇賞(第26回昭和55年)
- 牧野省三賞(昭和57年)
- 都民栄誉賞(昭和57年)
- 日本アカデミー賞特別賞(昭和58年)
- 山路ふみ子賞(映画賞/第10回昭和61年・第17回平成5年)
- 日本映画復興賞(第4回昭和62年)
- ウィーン市ヨハン賞(平成元年)
- 山路ふみ子賞(福祉賞/第15回平成3年)
- 日刊スポーツ映画大賞石原裕次郎賞(第4回平成3年・第9回平成8年)
- 報知映画賞作品賞(平成3年/平成14年)
- 日刊スポーツ映画大賞作品賞(第6回平成5年・第13回平成12年・第15回平成14年)
- ペスタロッチー教育賞(第4回平成7年)
- 紫綬褒章(平成8年)
- 朝日賞(平成8年)
- 藤本賞(特別賞/第18回平成11年)
- 上海国際映画祭最高監督賞(第4回平成11年)
- 勲四等旭日小綬章(平成14年)
- 日刊スポーツ大賞監督賞(第15回平成14年)
- ブルーリボン章(作品賞/第45回平成15年)
- 文化庁優秀映画賞(平成15年)
- 日本アカデミー賞作品賞(第26回平成15年)「たそがれ清兵衛」
深作 欣二
(1996~2003)
【プロフィール】
昭和5年茨城県生まれ。日本大学芸術学部卒業後、昭和28年東映入社。 企画本部を経て。翌年東京撮影所助監督部。 昭和36年「風来坊探偵・赤い谷の惨劇」で監督昇進。 昭和39年谷口千吉監督の「ジャコ万と鉄」を高倉健のの主演でリメイクしてヒット。 その後松竹や独立プロ、合作映画の作品を手がけながら活躍。東映に戻り、 昭和48年「仁義なき戦い」を発表し、大ヒット。シリーズ化されて、東映の任侠路線からの転換を先導した。 昭和57年「蒲田行進曲」でキネ旬監督賞など、多くの賞を独占。 平成12年「バトル・ロワイアル」を発表。平成15年「バトル・ロワイアルII」撮影中に死去。 他の作品に「誇り高き挑戦」「軍旗はためく下に」「人斬り与太」シリーズ「仁義の墓場」「柳生一族の陰謀」「青春の門」「復活の日」「魔界転生」「上海バンスキング」「火宅の人」「華の乱」「いつかギラギラする日」「忠臣蔵外伝 四谷怪談」「おもちゃ」などがある。
受賞歴
- 年間代表シナリオ(昭和47年・昭和53年・昭和61年・昭和62年)「軍旗はためく下に」「柳生一族の陰謀」「火宅の人」「必殺4ハ恨みはらします」
- ゴールデン・アロー賞(映画賞/昭和48年)「仁義なき戦い」
- ブルーリボン賞(監督賞/昭和50年)「仁義の墓場」「県警対組織暴力」
- 山路ふみ子賞(第6回昭和57年)
- キネマ旬報賞(監督賞/昭和57年)「蒲田行進曲」
- 毎日映画コンクール監督賞(昭和57年)「蒲田行進曲」
- ブルーリボン賞(監督賞/昭和57年)「蒲田行進曲」
- 日本アカデミー賞(監督賞・脚本賞/第10回昭和62年)「火宅の人」
- 牧野省三賞(第30回/昭和63年)
- 石原裕次郎賞(監督賞/第7回平成6年)「忠臣蔵外伝 四谷怪談」
- おおさか映画祭監督賞(第20回平成6年)「忠臣蔵外伝 四谷怪談」
- 日本アカデミー賞(監督賞・作品賞・脚本賞/第18回平成6年)「忠臣蔵外伝 四谷怪談」
- 紫綬褒章(平成9年)
- テレビジョンATP賞(第14回平成9年)「20世紀黙示録・もの喰う人びと」
- 日刊スポーツ映画大賞(監督賞/第12回平成11年)「おもちゃ」
大島 渚
(1980~1996)
【プロフィール】
昭和7年、京都生まれ。京都大学卒業後演劇仲間に誘われ、昭和29年松竹大船撮影所に助監督として入社し、大庭秀雄監督らにつく。 オリジナル脚本創作による監督をめざし、主宰誌「7人」及び助監督室編集の「シナリオ集」に11本の脚本を発表。 昭和34年「愛と希望の街」(脚本名は「鳩を売る少年」)で監督昇進。続いて「青春残酷物語」(第1回日本映画監督協会新人賞)「太陽の墓場」を発表。松竹ヌーベルバーグの旗手と称されるが、「日本の夜と霧」の上映中止騒動の後、昭和36年退社。同年独立プロ・創造社を設立。以後、「飼育」「白昼の通り魔」「日本春歌考」「絞死刑」「少年」「儀式」などを撮る。 昭和48年創造社は解散。昭和50年大島渚プロを設立。「愛のコリーダ」「愛の亡霊」「戦場のメリークリスマス」「マックス、モン・アムール」などの合作映画を発表。 平成8年2月脳出血で倒れるが、平成11年「御法度」を監督。
受賞歴
- 日本映画監督協会新人賞(第1回昭和35年)「青春残酷物語」
- ブルーリボン賞(新人賞/昭和35年)「青春残酷物語」
- 芸術祭賞(テレビ部門/昭和35年)「青春の深き淵より」
- 年間代表シナリオ(昭和35年・昭和42年・昭和43年)「太陽の墓場」「日本春歌考」「絞死刑」
- ギャラクシー賞(第一回昭和38年)「忘れられた皇軍」
- 日本映画記者会賞(最優秀作品賞/昭和41年)「白昼の通り魔」
- キネマ旬報賞(脚本賞/日本映画監督賞・脚本賞/読者選出日本映画賞/昭和43年・昭和46年・昭和58年)「絞死刑」「儀式」「戦場のメリークリスマス」
- 毎日映画コンクール脚本賞/監督賞・脚本賞(昭和46年・昭和58年)「儀式」「戦場のメリークリスマス」
- 英国映画協会賞(昭和51年)「愛のコリーダ」
- カンヌ国際映画祭最優秀監督賞(昭和53年)「愛の亡霊」
- ブルーリボン賞(特別賞/昭和58年)
- 川喜多賞(昭和60年)
- ハイビジョンアウォード特別功績賞(平成10年)
- 牧野省三賞(平成11年)
- 芸術選奨文部大臣賞(平成11年)「御法度」
- サンクトペテルブルク国際映画祭グランプリ(平成12年)「御法度」
- 紫綬褒章(平成12年)
- 毎日芸術賞(第42回平成12年)「御法度」
五所平之助
(1964~1980)
【プロフィール】
明治35年東京生まれ。松竹の城戸四郎に勧められ、大正12年松竹蒲田撮影所に助監督として入社。島津保次郎監督に師事し、大正14年「南島の春」で監督昇進。 昭和6年国産トーキー第一号となる「マダムと女房」を発表。 無声映画時代から戦後まで、松竹、大映、東宝、独立プロと渡り歩き、監督した作品は約100本。代表作に「村の花嫁」「伊豆の踊子」「人生のお荷物」「新雪」「今ひとたびの」「煙突の見える場所」(ベルリン国際映画祭入賞)「大阪の宿」「挽歌」「蛍火」「恐山の女」などがある。五所亭の俳号を持ち、俳人協会監事もつとめた。 昭和56年、79歳で死去。
受賞歴
- 毎日映画コンクール監督賞(昭和22年)「今ひとたびの」
- ベルリン国際映画祭国際平和賞(昭和28年)「煙突の見える場所」
- サンセバスチャン映画祭・カトリック賞(昭和34年)「蟻の街のマリア」
- 紫綬褒章(昭和41年)
小津安二郎
(1955~1963)
【プロフィール】
明治36年東京生まれ。中学在学中、活動写真にとりつかれ、映画監督を志す。小学校の代用教員を経て、大正12年松竹蒲田撮影所入所。 撮影助手、監督助手を経て、昭和2年時代劇「懺悔の刀」で監督昇進。 昭和4年「大学は出たけれど」昭和5年「落第はしたけれど」で当時の就職難を扱い、庶民の哀歓を描く。 その後「東京の合唱」(昭和6年)「生まれてはみたけれど」(昭和7年)やトーキー「一人息子」(昭和11年)を発表。軍映画班員としてシンガポールへの従軍を経て、戦後は撮影監督・厚田雄春と組んで、笠智衆、原節子らの出演で「晩春」(昭和24年)「宗方姉妹」(昭和25年)「麦秋」(昭和26年)「お茶漬けの味」(昭和27年)「東京物語」(昭和28年)「早春」(昭和31年)「彼岸花」(昭和33年)「秋日和」(昭和35年)「小早川家の秋」(昭和36年)など傑作を撮り、溝口健二と並ぶ日本映画界の巨匠として君臨した。 昭和37年には映画人として初めて芸術院会員となる。 昭和38年還暦の誕生日に没し、松竹、監督協会合同葬。遺作は昭和38年「秋刀魚の味」。
受賞歴
- 毎日映画コンクール監督賞・脚本賞(第4回昭和24年)「晩春」
- シナリオ賞(昭和24年・昭和25年・昭和26年・昭和27年・昭和28年・昭和31年・昭和33年・昭和35年・昭和37年)「晩春」「宗方姉妹」「麦秋」「お茶漬けの味」「東京物語」「早春」「彼岸花」「秋日和」
- ブルーリボン賞監督賞(第2回昭和26年)「麦秋」
- 毎日映画コンクール日本映画賞(昭和26年)「麦秋」
- 紫綬褒章(昭和33年)
- 日本芸術院賞(昭和34年)
- 芸術選奨文部大臣賞(昭和36年)
- アジア映画祭監督賞(昭和36年)
- ブルーリボン賞日本映画文化賞(昭和38年)
- 毎日映画コンクール特別賞(昭和38年)
- NHK特別賞(昭和38年)
溝口健二
(1937~1943)
(1949~1955)
【プロフィール】
明治31年東京生まれ。黒田清輝主催の葵橋洋画研究所に学び、大正9年日活向島撮影所に監督助手として入社。 12年「愛に甦へる日」で監督昇進。まだ24歳であった。同作は貧乏生活の描写がリアル過ぎると検閲ではカットされた。 関東大震災で京都の日活大将軍撮影所に移る。 「紙人形春の囁き」(大正15年)「唐人お吉」(昭和5年)「滝の白糸」(昭和8年)など無声映画時代から活躍、「浪華悲歌」「祇園の姉妹」(昭和11年)で名声を高め、戦時中は「残菊物語」(昭和14年)「芸道一代男」(昭和16年)など芸道ものを松竹で連作。戦後は「西鶴一代女」(昭和27年)「雨月物語」「祇園囃子」(昭和28年)「山椒大夫」「近松物語」(昭和29年)など名作を発表。 昭和31年永眠。享年58歳。 日本映画の巨匠としてゴダール、リヴェット、ベルトルッチら多くの映画監督に愛された。
受賞歴
- ベネチア国際映画祭国際賞(昭和27年)「西鶴一代女」
- ベネチア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞1位(昭和28年)「雨月物語」
- ベネチア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞4位(昭和29年)「山椒大夫」
- 芸術選奨(第5回昭和29年)「近松物語」
- ブルーリボン賞(監督賞/第5回昭和29年)
- 毎日映画コンクール特別賞(第11回昭和31年)
- 紫綬褒章(昭和30年)
- 勲四等瑞宝章(昭和31年)
村田實
(1936~1937)
【プロフィール】
明治27年東京生まれ。東京高等師範学校付属中学を出たが、19歳の時、演劇雑誌「とりで」を発行。 大正元年、劇団「とりで社」を旗揚げし、俳優兼演出者として舞台に立つ。 のち小山内薫の指導を受けて劇団「踏路社」を組織し俳優として活躍したが、 9年小山内薫について松竹蒲田撮影所に入り、第1回作品として自信原作。脚本の「奉仕の薔薇」を完成、映画監督の道を歩む。 10年、映画研究所に移り、「路上の霊魂」を演出し出演もした。のちに国活を経て日活に入社、現代劇部首席監督となる。 昭和7年日活を退社、新興キネマに転じた。その間、牛原虚彦と共に「映画科学研究」を編集。11年「新月抄」撮影中病気のため放棄。12年44歳の若さで亡くなり、第一次日本映画監督協会葬が行われた。 他に「街の手品師」「霧笛」など。
受賞歴
- 朝日新聞最優秀映画(大正14年)「街の手品師」
- 「第1回日本優秀映画監督投票・第二位」(映画往来/昭和5年)